人はどこに属しているのだろうか。
会社? 家? 市民団体? 日本国?
誰でも考えればいろいろと浮かんでくるはずだ。
たぶんそれはどれも間違っていない。人はさまざまな社会に属しながら暮らしている。
「人間は自然の一部だ」とよく言われる。結局、ぼくら一人ひとりも、さまざまに成り立っている社会も、この惑星地球に属していることになる。さらには太陽系、宇宙のなかに。
しかし、「自然の一部」は言葉として至極もっともであっても、本当にそう実感する瞬間が日々の生活のなかにどれほどあるだろうか。ぼくは畑仕事をして自然に常に接していても、それが日常化されてしまっていて、改めて地球への帰属感を意識するようなことはほとんどない。そんな鈍感極まりない農民であるぼくがふと目覚めるのは、たとえば詩を読んだときだ。
ナナオ・サカキという詩人がいる。ナナオは現在83歳。戦後間もなく彼は放浪の旅に出て、「所有」というものからは無縁な日々を今日まで送り続け、原生林や砂漠、サンゴ礁、氷河など、彼の言葉を借りれば「地球の原型が残された場所」を歩いてきた。その歩みから生まれた数々の詩は、人が本来どこに属しているのかという原初の感覚を呼び覚ましてくれる。たとえば、小笠原の母島で作れた「耳とは」という詩がある。
------- 「耳とは」 -------
 - 耳とは
- 生まれる前の声 聞くところ
- ねむたい赤ん坊の指 行くところ
- 火傷した指 まず 冷やすところ
- アイラブ ユー と キスするところ
- はずかしや 桃くれないに 染まるところ
なぎさの森に たたずめば
鳴きかわす 目白の群れ 十羽 二十羽
サンゴの海 はるか
座頭鯨の歌に 耳あわせ 胸あわせ
スコール 稲妻 台風
あれは そそり立つ 雲の耳たぶ
沈む 太陽 見送り
銀河水平線から
いま 寄せてくる
潮ざい むかえ
耳とは 風にすわる 貝がら ひとつ
-------(『ココペリ』 スタジオ・リーフ発行より)-------
かつてナナオは信州・生坂村の山奥の廃屋になりかけた一軒家を拠点としていた。もう20年以上も前のことだ。ぼくは20代半ば、その家にナナオをときどき訪ねた。
電気もガスも水道もなかった。水は近くの湧水を汲んで使い、明かりはランプ、燃料は薪だった。小さな庭があって、すぐ下に小川が流れ、対岸に崖が切り立っていた。山間のこの家は夕方の早い時間に陽がかげってしまった。ぼくのようにナナオを訪ねてきた人たちがいつもいて、暗くなれば誰かが囲炉裏の火をつけ、それをみんなで囲んだ。時計もなく、ここにはこの空間だけの時間が流れていた。
囲炉裏端で鍋をつつき、酒をのみ、環境問題などを語り合い、誰かが歌をうたった。鍋にはこの地で取れたキノコや、誰かが担いできた野菜や魚が入った。目の前で燃える囲炉裏の火を見つめながら、ぼくらは「もう一つの世界」を夢見、それを共有していたのだと思う。ナナオがこの地で書いた「すばらしい一日」と題した短い詩がある。
------- 「すばらしい一日」 -------
水を汲み
薪を運び
隣でしゃべり
陽が沈む
------- (『犬も歩けば』 野草社発行より) -------
まさにぼくが肌で感じたこの家での1日が4行のなかに集約されている。
ぼくらは地球に、宇宙に属している。それが真実でありながらも、現実の社会は競争を煽るばかりで、その感覚を麻痺させてしまう。しかし、この詩を読み返してみて、ぼくらが属する世界や国、地域のなかに、この「すばらしい一日」をどう取り戻していくのか問い続けよう、そんな思いが強く湧き上がってくる。
3月11日に長野でナナオの詩の朗読会を主催した。20代から60代までまんべんなく人が集まり、70の椅子が用意された会場は立ち見も出て、熱気に包まれた。コヨーテとも歌い合うナナオの声は、野生と共存していた頃の人類から引き継がれてきた遺伝子を刺激し、会場を埋めた人々のなかに原初感覚を呼び覚ましたように思えた。
ナナオの朗読会が4月は京都や東京近辺でいく度か開催される。みなさんにもぜひ足を運んでほしいと願う。日程は以下で。
http://studioreaf.skybox.jp/ |