『食育のススメ』(野池元基編著・川辺書林)という本を1月に出版した。
http://www.kawabe.jp/shoku.htm
この本をつくるきっかけとなったのは、ぼくが編集長を務める雑誌「たぁくらたぁ」5号の特集「『給食』は日本を変える」だった。
http://www.kawabe.jp/tarkuratar.htm
川辺書林の編集者兼社長がこれを読んで、内容が充実しているので、さらに中身を膨らませて本にしようと提案してきたのだ。ならば「やるべ」という話になった。
さて、本のタイトルはこの社長の発案で、福沢諭吉の『学問のススメ』をもじったもの。しかし、同じような発想をする人はたくさんいるようだ。「食育のススメ」をGoogleで検索すると、出てくる出てくるゾロゾロ、そのヒット数は約1万件にのぼる。「食育」だけで検索すると約152万件。これほどまでに食育という言葉が巷に氾濫しているとなると、「そもそも食育とは何ぞや」ということを明確にしなくてはいけない。氾濫に加担した者(つまり筆者)としての当然のツトメと自覚した次第なのだ。
ぼくがこの本の原稿を書くために取材して歩き、一番ショックを受けたのは、長野市内のある中学校の給食で出会った光景だった。
給食の終了時間が近づくと、この日の主食であるパンが、一口しか食べていないようなものまでポイポイと容器に放り込まれ、パンの小山がいくつも築かれていった。
ぼくらが子ども頃は家に持ち帰っていた。ところが、O157が流行した後、国の通達があって、給食の残食は廃棄処分することになった。そのなかにパンも含まれた。
長野市では6月〜9月まで、残食パンを廃棄することになっている。食中毒の予防がその理由。だが、果たしてその必要性はあるのだろうか。市の教育委員会に問い合わせたところ、持ち帰りパンで食中毒を起こした例はないという。
しかも、捨てられるのはパンだけではない。食べ残しと調理ゴミを合わせ、長野市の給食では合計で1日平均1.5トンほどの生ゴミ(水分を抜いたもの)が発生し、これを焼却処分しているのだ。これでは「食育」もいっしょに灰になってしまう。
ご存知のように、日本のカロリーベースの食料自給率は約40%にすぎない。このままでは日本の「食」が危険だから、もっと自給率を高めようということがよく言われる。もっともだと思う。しかし、教育現場でさえ、これほど大量の残飯が発生しているなかで、「日本国」の将来を心配しているばかりなら、世界から見ればずいぶん身勝手と映るに違いない。
日本の「飽食」は第3世界の「飢餓」の上に成り立っている。しかも、飼料作物などを生産するためにモノカルチャー化された第3世界の農業は、その国々の環境破壊も引き起こしている。ほとんど可能性のない食中毒を回避するという「贅沢な安全性」のために、食べ残しのパンを廃棄するなどということは、「もったいない」ではすまされないはずだ。
家庭での朝食抜きやファストフードによって日本の食生活が乱れているから、栄養バランスに気をつけた食事をとろう、という「食育」の考え方が間違っているとは思わない。かとって、農水省が食育推進のためといって「食事バランスガイド」なる啓蒙チラシなどを何億円もかけて印刷してばら撒いているのを目にすると、「おいおい、それは税金の無駄遣い」と言いたくなる。
「もっと優先して訴えることがあるだろう」とも。
食育というのは、「世界の食の公平さを回復すること。それを学び、実践すること」だと、ぼくは考える。栄養素がどうのこうのは二の次でよくて、「食はつつましくあれ」と素朴に表現すればよいのだ。結果として、それが日本の食料自給率向上や地産地消の取り組みにも結びついていく。
さて、『食育のススメ』のあとがきにも書いたが、「食事をつくる人がいて、作物をつくる人がいて、その向こう側には自然の営みがあって、それがつながることで目の前に食べ物がそろい、そしていただく」、このつながりが「食」だと思う。この本では、そのつながりの「結び目」となって食育に取り組む人たちの実践をテンコ盛りに紹介している。
理屈好きの典型的信州人といわれるぼくの文章ばかりでなく、もっと素直で温和で心にジーンとくる原稿もある。レシピもあって実用性もあり。ご高覧いただければありがたい。 |