「うらやましいですね、わが道を行けて」などとたまに言われる。会社人間ではないフラフラ者というのは、他人の目からそう映ることもあるらしい。しかし、「マイ・ペース」ぐらいならいいけれど、「マイ・ウェイ」はかなり気恥ずかしい。そんな意識はないし、自分では人の歩いてきた道をヨチヨチと後追いしているだけだと思っている。
そんなことを改めて考えたのは昨秋、里山へキノコ狩りに行ったときのことだった。前回紹介したわが家の雑木林までは、麓から1本の細い道しかない。「わが道を行くぞ」と仮に意気込んだところで、山へ1歩足を踏み入れれば道の片側は深い沢になっているし、もう一方はせり上がる斜面でかん木や下草が生い茂っている。道をはずれて歩くのは至難の業だ。たかだか標高1000メートル足らずの里山であっても、自然は「ご自分の道をお好きにどうぞ」などと言って人を優しく受けれ入れてはくれない。たった1本の山道がどれほどありがたいことか。
この道がいつできたのかは分からない。戦乱の世が終わり、人々の生活が安定した江戸時代になって、肥料と燃料の供給路として拓かれたのだろうか。
その時代に頻繁に利用されたことは確かだ。それ以前はおそらく獣道だったのかもしれない。ともあれ、獣や人々の暮らしの痕跡として、道はずっと存在してきた。そこをぼくは歩く。そして、ぼくの1歩1歩もまたこの時代の痕跡として道に重なっていく。
しかし、1人2人が年に1、2回ほど歩いている程度では、道はどんどん荒れてしまう。2年前までは、山道に覆い被さってくるササを誰かが刈り取ってくれていた。道がところどころ崩れても、誰かの足跡が「ここを通ればいいぞ」と教えてくれていた。その足跡を何人もが辿ることで、そこが道らしきものになっていった。ところが、昨秋は人の足取りを何一つ確認できなかった。
ササは繁茂し、新たな崩壊場所はそのままの姿であった。人が住まなくなればわずか数年で崩壊する廃屋の運命とも似ている。
特に崩落はひどく、その先へ行くためには、倒木の上を馬乗りになりながら体を進めなくてはいけなかった。落ちれば大ケガは間違いなしだった。この木をわずかに支えている土がもし崩れたら、今年の秋にぼくは目的の雑木林まで辿りつけないかもしれない。
前回のコラムで、キノコが一人占めできると喜んでみても、実は一人だけが得をする社会なんて本来は成立しえないのだと書いた。つまり、それはこういうことなのだ。
多くの人がこの里山に価値を見出し、例えばそれがキノコならば、その収穫を分かち合えるような社会が戻ってこない限り、道はなくなり、ますます山は人から遠い存在になってしまう。
ところで、あれは何年前だったろうか。
富士の塔山へ至る沢の入り口に突如巨大な砂防ダムの建設がはじまり、高さ10メートルほどの堰堤が山道を立ちふさいでいた。
やむをえず工事用の迂回路を登り降りして(まるで歩道橋を歩かされるように)、元の道に再び戻った。
そして振り返り、「何でこんなところに砂防ダムを作るのだ」と苛立ったのを覚えている。
この沢が氾濫して下流の集落に大災害をもたらしたという話は聞いたことがない。沢の集水域も広くないし、この一帯は降水量の少ない地域だ。そこにこれほどの大規模砂防ダムが本当に必要なのだろうか。ここから少し上流でも、ダムではないが砂防工事が行われていた。もはやこの時代、わが山は公共事業の対象としてだけの存在になってしまったのか。
砂防ダムが人と里山の歴史的なつながりを分断する象徴のようにも思えた。「ふるさとに入りて先ず心傷むかな 道廣くなり 橋もあたらし」と詠んだ石川啄木の傷みが、ぼくのなかでも疼いた。
砂防ダム建設にかかった事業費は約5000万円である。これほどの予算があれば、この山を市民の手で維持し保全していくような使途を考えることはできないだろうか。こうした提案はありふれたことかもしれないが、本気で取り組まなくてはいけない時代になっていることは間違いない。
道は一人ではなく、ともに歩く人がいてこそ存在するのだと思う。どんな道をこれから先、ぼくらは選択していくのか。この大量消費社会を支える物流のための道路ではく、自然の恵みや価値を肌に流れる汗とともに感じることのできるような道を残したい。競争原理のなかで見捨てられてしまった1本の細い山道を、この秋にとは言わず、今年は早春にも歩いてみようと思う。 |