秋が深まると山のざわめきが聞こえてくるような気がする。木々が落とす葉は風に吹かれてざわめくであろうし、動物たちも冬の準備のために忙しく歩き廻っているに違いない。
しかし、ぼくが何よりもざわめきを感じるのはキノコなのだ。
落ち葉をガサゴソと掻き分けながら頭を出して傘を開いこうとしている、そんな姿が目に浮かぶ。
キノコの種類は樹木の種類によって決定される場合が多い。ナメコを採るならブナ林へ、ベニテングタケ(毒キノコだけどおいしい)を採るなら白樺林へ、マツタケを採るならアカマツ林へ行くことになる。ただし、お目当てのキノコが必ず採れるわけではないが、これは「生物学」の問題ではなく、人の側の「経験」や「技」の差によるものだ。ともあれ、多様な樹木に恵まれた信州は「森の国」であり、それは「キノコ天国」と言っても差し支えない。ぼくはこの天国でずいぶん楽しませてもらった。
ところがである、5年前の2000年秋を境にして、ぼくはキノコ天国から遠ざかってしまった。理由はその秋に信州で起こった大事件にある。田中康夫知事が誕生したのだ。
それからというもの、山よりも俗世でのざわめきが激しくなり、ぼくはそちらにからめとられてしまった。まあ、しかし、この話を続けるとどんどん脱線していくので(田中知事と県議会みたいに)、いつかの機会に環境問題と関連させて話をすることにしよう。
さて、山へでかける機会は少なくなったが、それでも年1回は必ずキノコ採りに行く山がある。川中島平の北側に鎮座する標高998メールの富士の塔がその山だ。ぼくが通った小学校の遠足で登る山であり、畑仕事をしていて疲れた腰を伸ばすと自然と目がいってしまう、そんな「ふるさとの山」なのである。
この山の中腹に我が家の土地がある。麓から歩いて1時間半ほどかかる不便な場所で、山の斜面はきついし、コナラとクヌギを中心にした雑木林自体はちっとも珍しくはない。
税務署からすれば課税対象にもならない資産価値ゼロの土地だ。つまり市場原理の社会にとっては雑木林なぞは「役立たず」、今やキノコ採りの人の姿さえ見なくなった。江戸時代から連綿と続いていた里山と人のつながりが途切れようとしている。
江戸時代、我が家の土地がある一帯は村有林だった。
村といっても現在の大字ぐらいの規模になる。
ぼくが住む集落から歩けば2時間半はかかる場所へ、当時の人々は通ったのだ。そして、田んぼに鋤き込む落ち葉堆肥や生木の枝などを運んできた。薪炭林の役割も果たしていた。「昔むかし、おじいさんは山へ柴刈りに」の世界が日常の風景としてあった。
明治時代、地租改正によって共有地は個人所有地に分割されていった。
村有林だった富士の塔の雑木林も同じだ。それでも人々は暮らしの一部を里山に依存することに変わりなかった。大正、昭和と時代が移るなかで、次第に山への依存度は低下しただろうが、戦後しばらくまでは例えば蚕の暖をとるための燃料として、農家は木を切って山から担ぎ出してきた。
炭焼きもまだ行われていて、我が家の雑木林にはその当時の窯跡が残っている。
しかし、戦後の復興が終わり、ニッポンが高度経済成長時代に移ろうとする頃には、山と里との関係はほつれていく糸のように弱々しくなった。ちょうど川中島平から麦秋が消えていった時期に重なる。肥料は化学肥料に、薪炭は石油に取って代わられた。そして平成の時代、山はすぐそこにあっても、里からはまったく離れた存在になってしまったのだ。
そうはいっても、山に人が行かなくなると「得」をすることもある。キノコ採りの競争相手がいなくなったのだから、キノコをほぼ一人占めできる。ここ数年、ぼくはそれを経験してきた。
大量収穫が続き、ある年には入れ物からキノコがあふれ、着ていたウィンドブレーカーを脱いで包んで持ち帰ったこともある。
そんな話を友人にすると、「贅沢な生活をしているんだね」と誰もがうらやましがる。
「何だ、それだったら、山から人が離れてもいいじゃないの、あなたにとっては」と、もしかしたら皆さんは思うだろうか。でも、話はそう単純ではない。一人だけが得をする社会なんて本来は成立しえないのだということを、ぼくはこの秋に山で突きつけられたのだった。
こうして里山の話はさらに続くが、それはまた次回。
ところで、ここに掲載した切り株に生えるキノコの写真は、山ではなくて我が家のりんご畑で撮ったもの。12月になってから発生した。
キノコの種類はご存知のエノキタケ。これが野生の姿なのだ。お店で売っているのは暗室で育った「もやしエノキタケ」というわけ。念のため。
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