春分の日も過ぎて、季節は春へまっしぐら。
我が家がこの地へ越してきたのが昨年4月3日のことでしたので、いよいよ満一年を迎えます。
四季の変化をひと通り経験し、多少状況がわかった所で、これから始まる二回目の季節をどういう風に過ごそうかと、とてもわくわくしています。
ここに越してきてしばらく経ったある日、地元の業者の方がやってきて浄化槽の点検をすることになりました。浄化槽は家の脇に埋まっていて、定期的に点検し、動作確認と殺菌用の塩素の錠剤を補充するなどします。
この日は引越し後初めての点検日でした。その時に、この家の浄化槽にはトイレの排水しか入っていないことが判明しました。
「じゃぁ、お風呂の水や台所の排水はどこに流れているの?」と探しましたが、いったいどこに流れ出しているのか、さっぱり解りません。ずっと気になっていたら、ある日、田んぼの脇の側溝に出口が見つかりました。
すぐ近くには近所の方の田んぼへの取水口があります。今は耕作されていないのですが、排水の出口が取水口より数m下流で、この田んぼには流れ込まないようになっていることが解り、ひとまずほっとしました。その先は土管に入っています。
我が家の排水の行方を確かめたくて、川までの流れをたどってみることにしました。土管の出口から下は小さな谷になっていて、土や砂利の上をちょろちょろ水が流れていきます。その先で山の棚田を流れてきた少し水量の多い別の沢に合流したあと、集落で一番大きな川に流れ込んでいました。
この川の水は流域の田んぼで農業用水として利用されています。コンクリートで護岸されたこの川の水量は豊富ではありませんが、タモロコなどの魚も住んでいますし、夏になると沢山のホタルが見られます。
我が家からこの川まで距離にして250mほど。この間に私たちの排水が自然の力でどの程度浄化されるのか、見当もつきません。我が家の排水の行方を辿った結果、浄化槽を経由しない家庭排水が川に流れ込んでいるという、とてもシンプルな現実を突きつけられました。
台所でお皿を洗う時に使った泡がそのまま川まで流れたとしたら…。
まず、我が家の子ども達が夏の間お世話になったカエルやドジョウが、泡の中に住むことになります。
泡の中でどれくらい元気で生きることができるのか解りませんが、少なくとも子ども達が泡の中からカエルやドジョウをすくっている姿を想像するのは簡単です。そして、それは許容しがたい光景でした。
以前、南米のパタゴニア地方を旅したときに訪れた、海に面した小さな町の民宿では、キッチンのお皿を洗う時に、合成洗剤はもとより石鹸すら使っていませんでした。汚れをふき取ってから水洗いをし、油分のとれない物には重曹を少し使って、仕上げに熱湯に潜らせると、お皿はすっかりきれいになっていました。皿洗いに使う水がとても少ないというのも印象的でした。
それを思い出して、排水を100%きれいにすることが無理ならば、せめて排水の汚れを出来る限り少なくするよう気をつけることにしました。合成洗剤など生分解性の悪いものは以前から使っていませんでしたが、「泡だらけのカエルを捕まえている子ども達」の姿を想像することで、石鹸を使わずに済むよう気をつけるようになりました。
東京では下水道が普及していたので、家庭排水はすべて下水道を経由して浄水場に運ばれ浄化されていました。しかし、下水道は地中に埋まっていますし、住宅地の側溝も大抵は蓋がついているので流れる汚水や雨水を普段目にする機会はありません。浄水場もあえて見学に行く事もなかったので、実際は我が家が出す排水がどのくらいの量で、浄水場でどの程度きれいになってどの川に放流されているのか、特に意識することはありませんでした。
誰かがどこかできれいに処理してくれているだろうと言うような、単純な甘えにも似た感覚が有りましたし、台所の排水が川を経由して海まで繋がっていくということを想像するための、具体的な材料も日常生活の中にはほとんどありません。
ここの暮らしに、川はとても身近で重要な存在です。
「清流」と形容される一級河川の那珂川も近くにありますが、ほかにもいくつかの支流が町内を流れており、その支流にもたくさんの小川(沢)が流れ込んでいます。どの川も昔から農業用水として利用されてきましたし、現在も多くの川が田んぼに水を供給しています。
山の中の小さな流れでさえも稲作に利用していた時代があったようで、子ども達と探検に行った近所の沢にも、流れに沿ってできたわずかな平地に田んぼの跡が残っているほど。
川を汚すとどうなるかを考える時、ここには想像力を補う具体的な材料がたっぷりあります。そうやって想像したことは、多分どこに暮らしていても例外なく当てはまることだと思っています。
自分の出すものに責任を持つこと。
人間が生きて行く上で当たり前なとても大切なことを、あらためて考えるきっかけとなりました。
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