 
5年間の修業の後、1978年、小諸を独立の場に選びました。浅間山の雄大な自然を背景に、かつては商都として栄えた坂の街は、地形的にも大規模開発にあいにくいだろう、そんな計算もあったのです。
仕事場の建設は、建前までを大工さんに依頼、そのあと屋根張りから内装にいたるまで半年かけて自分で仕上げました。外壁には当時コンクリート製のものと交換の為、「くず枕木」として扱われていた鉄道の枕木を利用しました。
鉄路を支える枕木に求められるのは、硬くて腐りにくい性質です。初期の物は、最も理想的な栗の木。やがて、栗の木が不足して来ると、欅、桜などの広葉樹に範囲が広がります。広葉樹は住宅や家具材などで利用する際、製材をして板にされますが、最後に残った年輪の中心部分は、干割れが出る為、使い道が限られます。この最も硬くて密度の詰まった部分が枕木として利用されてきました。芯もち材ゆえ一本50キログラム程もある重たい枕木を、なんとか一人で持ち上げて作業をするのですが、時折やたら重たい物にぶつかり、面食らいました。アピトンという南洋材です。
日本の森林行政は、森林を国土保全の基礎としてよりも、財貨としての価値に偏った見方をしてきた為に、広葉樹の森を切り出した後、これを更新するのではなく、成長の早い檜、杉、唐松など針葉樹による拡大造林をすすめてきました。ところが今では、人手のかかる人工林からの国産材は、北米産の天然材に価格競争で太刀打ちできず、ハウスメーカーの「木の家」は、ほとんどが外材というのはなんとも皮肉な話です。
長野県は、県土の78%が森林ですが、この山国信州でも県産材を利用した家作りは活発とはいえません。植林された針葉樹が、間伐期を迎える現在も、需要は頭打ちです。大根畑も間引きをしないと太く成長できないように、せっかくの宝の山が、瀕死の状態です。
「あとは野となれ山となれ」とは、あまり良い言い回しに使われてはいませんが、実際日本の自然は大変復元力が強いのですから、国産材で家を作るなど、再生可能な資源を積極的に活用し、上手に循環させてゆくこと事が、結局は環境保護にもつながるのです。
信州で良く使われる「有るを尽くして」と言う言葉が私は好きです。まずは、足元にあるものを無駄なく使い切る事を考え、間に合わない物に関して初めて外へ目を向ける。こうする事で、輸送にかかるエネルギーが削減でき、同時に伐期を迎えた成木よりも成長期の若齢木のほうがCO2の吸収力が高い事を考えれば、森林の「地産地消」は、地球温暖化防止にもおおいに貢献します。
標高1000Mの冬の外気は、マイナス20度にも下がる事があるので、とにかく粘土が凍らない仕事場がほしい、それが枕木ハウス造りの動機でした。
26年前、今では老舗の自然派雑誌として定着した「ウッディー・ライフ」の創刊2号にこの家が紹介され、いろいろな方から、お問い合わせを頂いたことも懐かしく思い出されます。
優れた断熱性能を体感したこと、又、強い個性を持ちながらも、周りの自然に溶け込めるこの家は、周りの評判も上々です。
それだけに、私は、今の外国からの輸入に支えられた枕木ブームを、複雑な思いで見ています。
ともあれ、私の一番大きな作品であるこの建物は、時の流れを味方にしながら、作者よりもずっと長生きをしてくれることに間違いはなさそうです。こうして最後は自然に還ってゆく家づくりが、出来たのも、お金がなかったからこそで、人頼みにしていては出来ない貴重な経験をさせてもらった事を、今では感謝しています。
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