焚き火
ねえ 焚き火したことある
このまえねえ 川のずっとずっと上流で 焚き火したんだよ
それでね そこは民家なんかまわりになくて
その夜は月もでてなくて一面真っ暗だったんだ
それでふと上を見ると
今まで見たこともないそれこそ満天の星空だったんだ
見えるのはただただ星だけなんだ
あまりきれいだったから 飽きることなくずっとみてたんだ
すると一人ぽつんと浮いてるみたいに感じてきてさ
歩いてみると平衡感覚がなくなってきて
まるで宇宙を浮遊しているちっぽけな物体になるんだ
どれくらいたったろう
それでふと我に返って焚き火をしようと思ったんだ
まずは燃えやすそうな小枝をひろってきてさ
それに火をつけたんだ
まだ小さい炎だけど光はそこにしかないんだ
パチパチという音がしたりして だんだん大きな炎になってきて
そろそろ大きい枝をいれようかとか
どこにその木をいれようかと考えたり
一気に燃やしたり細く楽しんだりしてると
燃え盛る炎がねえまるで人間の怒りや悲しみ情熱を演じてるようで
これが見ていて飽きないんだよ
真夏だというのに川の水がつめたいから
すごく涼しくてね
でもね 炎をずっとみてたから
顔がほてってるんだ
それでウィスキーを川の水で割って飲んだんだ
するとアルコールが体中だけでなく
過去の記憶のなかまでしみこんでいくようでさ
なんだろう太古の記憶までがよみがえってきそうだったんだ
それでね そのとき思ったんだよ
君と出会ったのは偶然じゃないって
明日、いやいやもう今日、この詩を書くきっかけになった山上湖へ流れ込む渓流に幹部社員K君と2泊3日のカヌー&フィッシング・キャンプに行く。
いつものことだが、釣行の前日は興奮してなかなか寝付けない。
この一刻も早く寝たいのに寝付けない気分をたとえるなら、小学生のころの運動会前日に似ている。自分の活躍を妄想しだすと、スタートの瞬間やテープを切って一番でゴールしする姿が浮かんだりして心臓がドキドキし眠れなくなるのだ。今はというと、その渓流の”ぬし”を釣り上げる姿が思い浮かんでしまうのだ。
只今22日AM1時23分。ああ、ブログなんか書いてる場合ではない、とにかく早く寝よう。
釣果や自称レジャーアウトドアマンK君の失敗談(きっとなにかやってくれるだろう)など、次回をお楽しみに。
来た道と行く道が異なれば、同じ出来事に出会っても同じ体験をしてもものの見え方が大きく違うことでしょう。同じ人間の場合でも物事に出会った時期が異なれば、感じ方や捉え方が異なるくらいなので、どの見え方が正しいとかそういうことではありません。
唐突ですが、私はこの年になるまで、文学作品といわれるような小説をほとんど読んだことがありませんでした。
私の本棚は、山野草、鉱石ラジオ、宇宙のはじまり、冒険記、釣り、神秘体験等々が並んでいて、私の中では、小説=作り話=娯楽で、漫画や歴史小説は読んでも、文学作品はめんどくさそうでイヤだったのです。
しかしある日、そんな私に転機がおとずれました。
疲れた新幹線の出張帰り、座席にフリーの月刊誌がありました。ふと手にとると、あの開高健が紹介されていました。これは、釣り好きの人間にはわかっていただけるかと思いますが、小説をまったく読まなくても開高健には惹きつけられるのです。私はその記事を一生懸命読みました。すると、そこに「小説は虚構にして真実」、開高健の小説に対する考え方が書いてありました。以来、“虚構にして真実”という言葉が脳裏に焼きついて離れなくなり、一人の人間のもしかすると魂の奥底から搾り出されたであろう作り話をあえて読んで見たくなりました。
愚妻の本棚には、私が読んだことのない本が並んでいます。ロックキーボード入門などわけのわからないものから、三島由紀夫、谷崎淳一郎、大江健三郎、カフカ、カミユ、吉本ばなな、村上春樹、サルトルなど「どういう基準で選んでるんだ?」といった顔ぶれです。ないよりましかと無作為に妻の本棚から取り出しては小説を読んでいたら、妻がいつもと違う雰囲気で話しかけてきました。
「それ面白い?」と、なんか好戦的です。
「おれには理解しがたい主人公だけど、ねちねちした感情をこうもくどくど書いても読ませる力があるんだからこの作家はすごいもんだね」と、“痴人の愛”を手にし、わかったような分からないような回答をしました。
「ああ、それそれ、その人わかんないんだよねえ。三島由紀夫の方が共感するよねえ。自分にない部分を書かれてもわかんないんだよねえ。例えば太宰治は・・・」
愚妻はいつになく自慢げで、話は終わりそうにありません。
そこで妻に言いました。
「そんなことより、小説はなあ、虚構にして真実を語ってあるんだよ」
「それはそうよ」と、今頃そんなことを知ったのかと急に同情的な目に変わりました。
毎回ボツとはいえ、いやしくも作家を目指している人間は違うものです。いつも自分が99%正しいようなことも私が反論すると自信がなくてとおどおどしてみせる妻が、今夜は根拠のない自信に溢れています。
「一通り文学作品を押さえたいとすると何を読んだらいいの?」
私は親切に聞きました。
愚妻はかっと目を開いていいました。
「パールバックの大地」
そして、それから数日後のこと。
全四巻のパール・バックの“大地”を妻が実家から入手してきました。
中学のころ読んだ本というのが気に食わなかったですが、ありがたく頂戴しました。
「19世紀後半から20世紀初頭にかけて古い中国が新しい国家へ生まれ変わろうとする激動の時代に、大地に生きた王家三代の年代記。貧しく、わずかばかりの土地を大地主の黄家から借りて耕す王龍は、黄家の奴隷の阿蘭を嫁にもらうことになった。働き者の阿蘭を得たことがきっかけとなって王龍の運が上向き、子宝にも恵まれて多くの土地を手に入れ、ついには黄家の土地も買収してしまう。」一巻のカバー文より。
実は少し馬鹿にしていたのですが、1巻の中盤に差しかかるころまで読み進むと、これが文学作品というものなんだろうなあと本当に心の底から思えました。
「これぞ文学だね」と、電車の中から感謝のメールを妻に送ったほどです。
愚妻は中学生だったころ、この作品を通して人間や社会を知った気分になり、一方、私は文学は漫画や映画とは根本的に異なるもので、観察し考察する点においては哲学や科学と似ているけど、表現方法においては美術や音楽と同じ芸術と同じようなものと思うようになりました。
文学作家は科学者よりも、社会や人を見つめて考察する点においては優れているところがあり、科学は数学を用いたり実験で検証できて対象とする領域が単純なせいか、考察する力に搾り出すような苦しみが感じられないように思えます。
さて、しばらくは文学作品の読書の日々が続きそうです。
休日に本ばかり読んでいたら、私の近辺にすごい勢いで雑草が生えてきました。
もうすこしゆったりと、晴耕雨読の生活を送りたいものです。